他者への不寛容。「他者意識」なしには、平和は生まれない

今日は、ryuchellさんに起きたことを受けて、私が考えたことを綴りたいと思います。

最近はネット上での誹謗中傷が増えていますが、それはネットに限ったことではないと思っています。

増えているのは、たまたま同じ電車に乗った見ず知らずの人や通りすがりの人など、「知らない人」に対する不寛容。

初めて会った人に対してだったら、ほとんどの人が礼儀正しく、マナーを持って振る舞うはず。

それなのになんで、ネットやテレビを通して知っている人やたまたまほんの少し同じ空間にいただけの人に対して、暴力的な行動をしてしまうことがあるのでしょうか?

意図していない “人との出会い”

そもそも、「相手と関係性を作ろうとしていない」状況で、人との出会いが増えすぎている気が私はするのです。

それは逆に言えば、今身の回りにいる「知らない人」と、会話をする機会が少なすぎるとも言える。ネットの場合で言えば、そもそも相手と関係性を築くことすら難しいですね。

ネットを通じた交流が普及したいま、現実世界で相手と関係性を築く以外に、ネット上でどんな言葉のやりとりを交わすか、といった新しい非対面のコミュニケーションも増えてきています。

特に人口が密集する都心周辺では、郊外から都心へ仕事のために移動する人が増え、帰る場所もみんなバラバラ。その通勤途中で同じ車両に乗る人は、知らない人。みんな違う場所へと帰っていく。コミュニティが形成しづらい社会になっています。

知らない人は知らない人のまま。話さない。

別に仲良くなろうと思ってるわけじゃないのに、同じ場所にいる。どうでもいい他人が増える。

別に今後仲良くなりたいと思ってるわけじゃないから、どう思われてもいい。むかついたら、暴力的なことをしてもいいかも。だって友だちじゃないし。知り合い誰もみてないし。

知らない人と会話する機会が減っている

知らない人と会話することが減ってきているんだと思います。今日暑いですね、どこからきたんですか?くらいの、田舎のコンビニならよくあるような会話が。知らない人に向けるのはまず「善意」、だったのが、「無関心」、そして「敵意」になっているような。

話は戻りますが、「他者意識」とは何でしょうか?

他人の立場に立って、どう感じるか相手の気持ちを考えること。自分が賛成できないことを誰かがしたときに、その人がなぜその行動をしたのか、その人の立場になって考えること。ただ批判をするのは簡単ですが、「もしこういう思いがあってやったのだとしたら」「この人はいまこんな心境だったのかもしれない」と共感(empathy)を持つことです。

ただの批判のつもりが、暴力的な言葉になって、しまいには相手を傷つけるかもしれないことすら忘れて、ただ自分の言葉を相手に押し付けてしまうとき、もしかするとその人自身の心も日常生活から疲弊して、傷ついているかもしれません。

ただ、これはやめましょう、よくないです、と言いたいのではなく、他者意識をいつまでも持っていたい。ときにはそれで自分が苦しくなることがあるかもしれませんが、そのときは全てから一度距離を置いて、自分を守れたらいいな。

ご冥福をお祈りいたします。